雑談イロハNo.4 (/5)
デリダパンチ!(雑談チ)
更新
デリダパンチとは、デリダによるパンチである。デリダに失礼なことをいって、勝手にパンチを食らったことにする。なんて失礼な! デリダさん、パンチはやめてください。エエーッ!?
ここ二日間であれこれ読むべきものを読んでいて、それらが書かれたもの/語られたものであることをおもうと、意思のないものが完全に生み出したそれが、どのような意味を持っているのか、不思議におもうことはあります。とはいえ、今の生成AIによるようなもののパターンはまだ意思を反映させているのでしょうから(そうであるといえそうですが、あくまで統計的なものなので完全にそうだとはいいきれないものです)、完全に意思のないものだ、と言い切ることはどうしようもできないわけです。
たとえば偶然に本棚をみて背表紙を横に読んでいったら言葉になっていたとしましょう。それはきっと偶然のものだと考えられるでしょう。そしてまたそれが、ひどく意思のある存在が語るような思想のあらわれているものだとしたら? ひょっとしたらそれは心霊であるかのように感じ、恐怖を覚えるかもしれません。あるいは飼い猫の破った新聞紙が、偶然にも並んで言葉を作っていたら? 人間ほどの言語能力を肯定することはできないにせよ、そうした生命が起こすようなそれは、先の偶然とは異なるものでしょうか? いいえ、そうではないはずです。結局のところ、それは同じものであるはずですし、実際同じことです。
デリダがやるような、巧みな空間のことをおもいます。とりあえず論理は悪くないのですが、デリダはその仮定に恣意的なものが見られるような気がしています。特にエピソードを語る場合には顕著です。猫(リュクレースとかいうそうですが)に見られて恥を感じた、というようなエピソードは、そもそも共通のものでもないし、その因子は自身によるほかのエピソードによる想起であることを否定できないにも関わらず……。ソーカルでもないのであれこれ哲学のことを難癖つけて自然科学を優位であるとはいうつもりないのですが、しかしそうしたエピソードについて執拗に考えることは、哲学的ではあるけども、必ずしも有意義であるようには感じられないものです。
むしろ、意地が悪いので、それは(西洋的な)恥というよりも申し訳なさであってほしいとさえおもうのです。そりゃあ猫も困ってしまったでしょう、なぜそういう見窄らしいものを見なくてはならんのだ、とか。好意でも無慈悲でもないですし、驚きでも感謝でもないわけです。そもそもその列挙さえデリダがテキトー言っているわけですし、そうした概念が並べられない時点で恣意的な幻想を猫に重ねているように感じられる。
結局のところ、デリダは猫に裸を見られて恥ずかしいとおもえばいい材料になるから恥ずかしいとおもったと考えても差し支えないわけですし、それだけではそういうことを指摘できるほど軟弱な仮定でしかないわけです。
そして、デリダがそれを恥であるということから抜け出せなかった限り、それはもはや自らがそうしたいと願ってそうなったような事象であることを、全く否定できないというわけです。換言すれば、恥の反射ではなく、単に裸を見られたと感じたときに恥であると感じたいがために、猫であろうと何であろうと都合よく恥ずかしいと感じめることに成功した、という、ただそれだけのことだといっても、デリダが墓の中から出てきて、なんと失敬な、ロクに読まずに、とデリダパンチを喰らわせることも、(おそらく今のところは)ないわけです。