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雑記

雑談イロハNo.2 (/5)

時の外に(雑談ニ)

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笑うことしか知らない生き物に、悲しみをどう教えればいいのか。和歌、英詩、なんで色色出てくる必要があるんですか。見たけりゃ見せてやる精神で引用しまくり文字数を稼いだ雑談。こうでなくちゃね。

 悲しみかたをどう教えればよいか。全く新たな生物が、笑いだけで意思疎通をしていたなら、どのように悲しみを教えるべきなのだろう? そのような命題を考えてみます。

 一体悲しげな表情というものは、その悲しみを知らないで理解されるものなのか。笑顔というのは口角をはじめとして特徴が定義されているようですが、悲しみのための表情はどこで定義されているのか、あるいはいかにして定義しようか、頭を悩ませてもみますが、よいやりかたは見当たりませんし、そのような見当もつきません。

 悲しみ? そういえば意味のない悲しみというものを体感したことがありません。喪失であれ、失態であれ、なにかに起因してそれが興ったものです。喜びのように、どこからか湧き出るようなことはありませんでした。あったとして、それは悲しみというより絶望だったので……。

 哀愁は伝えるものではない気もします。「山住みのあはれを誰にかたらましあかざこに入れかへる夕ぐれ」良寛。あるいはこれも顕著です。「老いの身のあはれをたれに語らまし杖を忘れてかへる夕ぐれ」良寛。良寛のあはれをいえば「たをり来し花の色香はうすくともあはれみたまへ心ばかりは」が「西行法師の墓に詣でゝ花を手向けてよめる」というから西行もみてみるしかない。誰だって知っているはずの和歌には「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」がありますね。知らぬというのなら感性が研ぎ澄まされるように感じられますからもう二、三度読んでおきましょう。西行にはこれもありました。「よそに思ふ別れならねば誰をかは身よりほかには問ふべかりける」。あるいは「なき人を忍ぶ思ひの慰まば跡をも千度問ひこそはせめ」であるとか。

 しかしほかの生物の悲しみを代弁することはあります。「ことわりやいかでか鹿の鳴かざらんこよひばかりのいのちと思へば」和泉式部。好き放題好きな和歌ばかり引用するのは道理ではありませんけれども、よいでしょう。まだいろいろ引用しましょうか。「わび人はうき世中に生けらじと思事さへかなはざりけり」源景明。このわび人は任官の叶わなかった人の意味ですが、これはまた語らぬものどころか、語ることさえ叶わない厭世の句ですね。

 そういえば喜びを誤魔化すようなものをひとつ。「あさぼらけひぐらしの声聞ゆなりこや明けぐれと人の言ふらん」左大将済時。これは面白がっているようで、それを語源にすり替えて笑っているようで、語るに語らぬものであるでしょうか。「思出でもなきふるさとの山なれど隠れ行くはたあはれ也けり」弓削嘉言。さてこれはあはれの誤魔化しなのか知ら。淡白に込み上げるそれを詠みあげているようで、ただ溢すだけだが、むしろどうしても現れ出るそれを堪えず口ついたともいうべきものであるようにも感じます。

 とはいえ、悲しみは、'For oft, when on my couch I lie / In vacant or in pensive mode, / They flash upon that inward eye / Which is the bliss of solitude; / And then my heart with pleasure fills, / And dances with the daffodils.' Wordsworth. 流れ消えることが望ましいものであるように描かれることもありましょう。むしろ悲しみに重ね合わせるのは、'As imperceptibly as Grief / The Summer lapsed away ─'. Dickinson. ここいらでよいでしょう。

 引用が多いですが、それもたまにはよいでしょう。同じくDickinsonから。'Exterior ─ to Time ─'なので……。

 ところでこれの執筆中はずっとシャニマスの楽曲を流していました。感情をダダ漏れにした曲を聴きながらこれを書くというのも、なかなかおかしなものです。しかし、話題になった月曜日も、語るに語らぬ(これを「語るうちに語らないでいる」、の意味で使っています)悲しみの現れだったのでしょうかね? そもそも「今日のデザート」「食べたら終わっちゃう」のもそうなのですが……。