folja
雑記

雑談イロハNo.5 (/5)

静かなる言葉(雑談リ)

更新

書きかけのまま葬られ、下書きの底に積み重なった無数の「雑談」たち。手放したものすべてに、いったいなんというのか! 次回、その言葉が明らかになる! でもfoljaに広告を載せる気はないのでここでCM代わりのへたっぴ講談とかどうですか。いらない? あらそう。

 誰にも読まれない言葉を紡ぐというのは、それなりに楽しい行為でもあります。なにも言葉は伝えられるためにだけ構築されるものではないのですから、誰が使いもしない独自言語が制作者の死によって葬られるのと同じように、あるいはまた知りもしないひとの日記を、苦心してまで読もうとおもわないように(日記だけ盗んでトンズラこく泥棒の話をいまだかつて聞いたことがありません)、そうした言葉は文字通りなにも語ることも叶わずに失われることになるのですが、単なる構造が、それを見られて恥だとおもったり、見られることを恐れたりするように、伝達される行為によってひとが振り回されるそれと同じように、むしろ伝達されないことによって真っ当に向き合うことのできる言葉というものが存在するかもしれない。

 今下書きをみてみると、過去の「雑談」のうち、途中で言葉に詰まって没にしたものが山ほどあります。これはそうして、流れるように書くことのできなかったものは、もう世に出すべきでもない、歌うように語られた独り言そのもののように、その場で消えてしまうべきだ、とおもっているのでほんとうはさっさと削除しても構わないのですが、とはいえどうしたところで葬られた言葉は多いのだ、などということは(たとえそれが偽装だとしても)いくらでも主張できますし、あなたもそのように認めることはできますから、そのようにしてください。

 この「雑談」というものが一連の不幸な運命のもとに結び付けられたシリーズだとしたら、その一部には葬られた言葉の存在があることになります。もちろん思考というものがそれそのものである、失われるものもあり、それが言葉になるときにはおおかた何ものかが失われている、それは自動筆記でもあるいはそうかもしれない、などと主張することはできるのですが、それに比べてあまりにも形のはっきりした屍が多すぎます。下書きのページを開くたびに死屍累累としているのです。もはや読まれもしない、ガワだけの「雑談」と銘打たれたそれら……。

 何かを失ったり、手放したりする/したときに、決まって口にする常套句があります。楽しかったよ、某、と、ただそれだけを口にするのです。つまりそれは「(なにはさておき)楽しかったよ」の意味なのですが、そうしたものにかける言葉はそれくらいしかないようにおもっています。たとえそれが不遇な運命であれ、決定的な事象であれ、あるいはそのように脅迫されたものであれ、うっかりとどこかに手放してしまったものであれ、それらにかける言葉はあれもこれもあるわけではなく、あれかこれか迷うものでもなく、もはや選択さえもなく、ただそうした「なにはさておき」の弁明を押し殺した一言で終わらせるより他ないとおもっています。それで、先の死屍累累を前にして、やはり(なにはさておき)と前置きながら、それをひた隠しに、楽しかったよ、と口にするしかなくなるのです。

 別れというのであれば、大抵は明示されない、それも不確かな形で互いに関係を持たなくなる別れが多いものだろうと信じています。それで結局、そうした言葉で片付けるしかない。けれどもおそらく一番単純に、また美しく響くそれは、おおかた人生を(主に自ら)終わらせるときでしょう。「楽しかったよ、人生──」、これまでも自らの過去を象徴しうるようなものを手放したときに、この言葉で弔いをしてきましたが、ほんとうに人生そのものを手放すとき、そのように口にしてから、しかも誰にもそれを聞かれることなく、それで去ってゆくのが、一番正しいやりかたであるようにおもわれてならないのです。