雑談イロハNo.1 (/5)
お人形遊び(雑談イ)
更新
切り取った言葉に講釈を垂れ、嫌悪を「批評」と呼んで……。雑談シリーズの一作目にして、雑談にそぐわないストーリー。これを元に小説の一つは書けるやもしれませんが。書く気はありません。そんな小説つまらないじゃんね。
他者の発言に対して、それも雑誌のインタビューだとか、ちょっとしたSNSでの投稿だとか、そうしたものを平然と切り出し、それに解釈垂れてはその人物に対する攻撃性、嫌悪の表明を正当化する行為。
たとえば批評というものは(皮肉的に語るならば)そうした定義を持つように表現できるでしょうか。そうした、不親切で悪魔じみた解釈を売りにするならそれで構わないでしょうが、だいたいそれは批評ではない。批評はどう解釈してもこうはなりません。
つくづくこうした適切な単語がおもいつかない〈定義〉なるものは、ある時代に発現したものか、あるいは現在性がそれを気付かせてきたのだと考えます。換言すれば、それは「新しく生まれたもの」か、「今この場で起こらないと体感しづらい・認知しづらいもの」のいずれかだろう、ということです。
先の例をみてみましょう。だいたい人間である以上、些細な一言で嫌いになることはあります。もっともそれ一つが原因というより、単に自分が嫌いたかったとか、もとから嫉妬していてそれが嫌悪、攻撃性として現れたとか、そうしたことのほうが多いのでしょうが。しかしそれが、やはりインタビューだとか投稿だとかを切り出して、講釈垂れて都合の良いように解釈し、結果それが自身の攻撃や嫌悪を正当化し、また公表するようになることは、少なくともコミュニティが比較的物理的に狭かった時代ではそう容易く起こらなかったものだろうとおもいます(あるいはそれらは誤解に基づくものであり、比較的解消しやすかったかもしれません)。権力者の逆鱗に触れれば村八分にされるというような、そうした状況はむしろ減ったのかも分かりませんが(どうでしょう)、そうではなく個人がただ個人として先述した行為に出ることは、コミュニティの拡張に従い、より容易にできるのかもしれません。
とはいえ、嫌悪も攻撃も、少なからずそれを表現することは自由です。最近は棘のある表現には、その棘を針だと間違えて噛み付く能天気な魚のように個人が群がるようになっていますが、本来は明確な線引きこそ無けれども、ある表現には寛容が存在しています。精神的に向上心のないものは馬鹿だ、とか(「馬鹿」というより「どこか抜けている」などと表現したほうが酷く罵倒に聞こえるのですが、やはり昨今はそうした単語に飛びつき首をかられるものでしょうか。どうでしょうね)。
そしてそれは当人より分析される必要があります。それが一番必要なことです。それがアドバイスとしても、単なる批判だとしても、それらは当人より熟考され、また分析されるべきです。もっともそれは、ある種の専門家にのみ語りを許すことではありません。新たな視点を提示することも(学術研究がそうであるように)有意味な行為です。とはいえ、浅慮のまま先の「批評」がなされるとき、それは全く無価値なものである。もはや断定するほかに語る術はありません。それは表現でさえないし、それに寛容になる必要はどこにもない。
往往にしてそうした批評をするものは、自らの浅慮に気付いていません。その批評に夢中になっているし、その思想自体が自らのものであり、自らそのものであり、また自らの分身のように錯覚しているのです。たとえばそれらが何かによって不本意におもいこませられているとしても、あるいはそれが自ら放棄しようとしている幼稚な面がそうさせようとしていたとしても、なぜか批評の皮を被った途端に、それらが高尚なものにみえ、また自らの子であるかのように死守し、尊重しようとします。全くそれらについて普段思弁する際に生じる批判やアンチテーゼの発見のような行為は行われません。もしあったとしても、それは赤子の手を捻るように容易く撤回できる程度であり、結局のところ自らの箱庭の中でか弱い分身を育てる人形遊びをしているに過ぎません。そしてその人形遊びを公開する行為こそ、かの〈定義〉による行為の本質なのです。
恐るべきことに、その人形に与える養分は、切り出されたテクストだとかに代表される、偏ったものばかりです。それもそうです。誰も人形遊びのために本物の食物を「バランスよく」用意しようとはおもいません。そのようにして取るに足らない断片だけを食べた人形はいずれあなた自身に成り変わるでしょう。特にそれが自らの人格を代表する表現媒体(アカウントを持ったSNSであるとか)である限り、それはもはやあなたの顔そのものです。いずれその人形はあなたの代わりに語るでしょう。