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雑記

み

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み! み。み? ──どういう了見か、「み」でものを語る奇妙奇天烈な文章。folja収録にあたり、ディレクターズカット版となりました。

 「み」について考えます。

 名詞としての「み」は構いませんね。実、身、味……、あとは字引きでも活用して各各で知ってください。ここで論じたいのは、「み」というそれが如何なるものか、ということです。

 たとえば「み」は尊ぶ意味で用いられます。また、「が故に」の意味で用いられることもありますね。「からみ」といえば「からいが故に」ですし、「ねむみ」といえば「眠いが故に」です。

 現代は「み」はもっぱら「味」から転じたのであろう「の風である」「の様である」「のようである」ないしは「自身が主体的にその属性を持っていることを回帰的に認識している」を意味する接尾語の用例を確認することができます。先にあるものであれば「ねむみ」がそうですね。

 そういえば、「よき」は古語から生まれたとされる言葉でしたね。こういう表現は(今のところ)はしたないので正式とされる表現ばかりを使っていますが、どうでしょう、「よき」というのが音声としてひとを魅惑するものでしょうか。

 あらゆる言葉というものが、何かしら音声的な印象をもとに生まれていたのならば! そのように考えてみると、「ねむみ」もその裏に理由を見出すことのできる表現のようにおもわれて仕方ありません。こういうのを恣意的な捏造といいますが、そうはいっても「ねむい」に対し「ねむみ」となると、その用例は「ねむい(が故に)」という文脈に限定されるような気もします。他方で「ねむい」というのは「ねむいようだ」というふうに、単なる観測としての表現を期待できそうです。要するに、「ねむみ」を他者に用いる場合でも、「ねむみ(ねむい、が故に……そのあとは察し給え)」というような。こじつけですね。学術論文ではこんなことやっちゃダメですよ。

 ……そしてまた、そうした「み」はどこか感情的でもあります。「察して」ということと、敬意としての「み」。語源なんざあなんのその、という荒さですが、むしろ音声的にきこえのよい響きの文字で構成されるように語源となるものが選ばれたり、語形が変化したりする、という可能性があっても夢があるものです。

 このような話をすると、ブーバ・キキ効果など持ち出されそうですね。あれは一部の特徴を持つ対象には有意みられなかったそうですが、マーサズ・ヴィンヤードが手話も一般的な言語であったように、そうした特徴を多く有するコミュニティでの言語は、むしろ音声的な特徴を持って変化せず、そうではない言語での言語変化はそのような傾向が見て取れる、なんて研究が生まれたら面白そうですね。

 以上、「み」でした。み〜(別れの挨拶としての「み」)。