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思想

定義について考える

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ロジェ・カイヨワ『戦争論』冒頭の戦争の定義を手がかりにして、自然科学と社会科学・哲学とで「定義」がどう異なるかを考察する。そういうことをいえば聞こえはいいのだが、冷めたことをいうとここ一年でこれに対する見解は大きく変わった。主軸はそれほど変わっていないのだが、少なくともこれが全てではない。

戦争は集団的、意図的かつ組織的な一つの闘争である。こう初めから定義しないかぎり、人は戦争を理解することができない。

ロジェ・カイヨワ「戦争論」法政大学出版局

 しばらく前、「戦争論」を読んだとき、その書き出しは写すほどに衝撃だった。戦争の定義によるからではない。これが定義そのものであるということ、すなわち定義そのものに面喰らったのだった。

 これは自然科学における定義ではない。自然科学における定義は、常にそれが再利用される形で、またその対象の写像となるように定義される。また、不都合があれば定義されなおす。転用する際は同様に定義される。ある領域があって(物理学だとか数学だとかという大枠でもいいが、大抵そのために定義された用語は、より狭い分野のために厳密な定義が施される)、その領域のみで成立するように定義される。もっともそれは全てではない。ときに異なる事象を断りなく用語を用いて借用することがある。特に自然科学に端を発する用語ならびに百余年以内にその分野での使用が一般になった専門用語を除けば、その濫用は著しい。アトモスは原義が否定されたが、未だにそれを元に用いられている。パラダイムはその主張を短絡的に見、科学について幅広く用いられる。エネルゲイアはデュナミスを黙殺し、ポテンシャルエネルギーを含み、再定義が著しく原義を曲解している。日本語では「情報」が甚だしい。これは表現として用いられる場合にその価値の有無を度外視し、未定義のまま俗的に用いられる。

 さて、これらの例がこじつけというのなら、それは自然科学の定義は自然科学のうちにおいて巧妙である点を既にわかっているはずだ。少なくとも自然科学のうちで用いる限り、それらは(「パラダイム」「情報」などの日常での乱用を除けば)ある概念があって、それを示すための名称として成立する。つまりエネルギーのことをわざわざエネルギーと呼ばなくても、その定義を用いれば代用できるようにできている。つまり、原義がどうであれ、自然科学では公然に定義されていさえすれば構わないというのが慣習となっている。また、それが正しさであり、認められない限りそれは用語として立ち上がらない。あわせて、そのようにしか語ることのできないものを語ろうとしている(そのわりに、多世界解釈をトンチキ扱いするのは遺憾だが)。

 他方で社会科学や哲学などにおける定義は、ある用語があって、それに対応する任意の定義がある。それが構造だろうが、対立だろうが、論理だろうが、実存だろうが、事態だろうが、それらはある定義を写像として持つのではなく、(大抵はある曖昧な区別のために)用語が先に立ち上がり、その成立を証明するために定義がある。たとえばここにグラデーションバーがあったとしよう。それを切断するとき、その左右が明確に異なる意味を持つような対象を論じるのが哲学であり、その切断のことをある用語をつけて、その左右の差異などで語ろうとするのが社会科学や哲学の定義の様相である。

 常にそのようではないことを理解いただきたい。辞典における定義のほとんどはそのようではない。しかし、哲学が扱わなくてはならない対象は、多くは自然科学が黙殺している領域である。今はその価値について論じる心算はない。ソーカルも科学のことを「それが成功したから」とみなす言及をしている(アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン「『知』の欺瞞」岩波書店)が、一体哲学は成功しなかったか、ということをここでは論じない。

 しかし、そのような定義は果たして定義として成立して構わないのか、という点はやはり言及されなくてはならないだろう。けれども哲学や社会科学は果たして何も成していないだろうか。そのようなことはない。歴史をみれば、自然科学と哲学は一体であり、また哲学や社会科学が学問として寄与した例は(今のところ構造主義まで)ある。いわゆるポスト構造主義がここで対象にならないのは、哲学において、ポスト構造主義が未だ完成していない点にあるとしてよいだろう。哲学は自然科学とは違い、ある時点で主義が立ち上がればその時点で完成されるわけではない。

 社会科学や哲学における定義が成立する可能性は、自然科学によって証明されるものではない。むしろそれはある分野の慣習により、またその分野において定義の定義に矛盾が生じないのであれば、その定義についてケチをつけるべきではない。

 酷い例示を残しておこう。自然科学の定義は性癖を語ることはできない。あらゆる性癖は流動的で、それらの性質も常に破壊される。明確な対象をもてず、あらゆる性癖は性癖の用語が先行して、それを定義することによって識別することから始まる。すなわち自然科学は性癖について論じているのではなく、むしろただその全ての現象に対して共通して成立する(またはそこでそれが関与しないことを示す)性質について語ることしかできない。

 異なる分野への言及は、果たしてその一方の分野から正しくなされるだろうか? おそらくはそれを成功させることはできまい。それが故に、もし借用するのならば生半可に行うべきではない、それだけは確かだ。けれどもその一部を掠め取って、それらを批判しようとするとき、自らが高高対立する一方の側であり、その対象の側から観察しようとさえしない限り(そしてそれは往往にして他分野を体系的に知らなくては成し遂げられない)、酷いバイアスを避けようもないことは、あらゆる言説に常にまとわりついている。