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雑記

友達になって、と、いう

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ノーベル文学賞受賞者の悪魔合体! ディマン・ディラン。だいたいそんなノリのことしか書いていない。

 友情というものに定義がないとして曖昧にしたり、言外で友情が体現されることを美徳としたり、そうした、どこか儚さを孕んだ、無責任で、いつでも霧散させられるような関係を増やしたところで、そうした関係の恐ろしさに気がついたとき、ひとは本当に耐えられるものだろうか。いつのまにか親しくなっていたのだった、という、さもそこに自我が存在していなかったかの物言いに、ずうっと昔の、忍び笑いの表情だけをおぼえているひとを親友だと認め、……それらと親しくあることができればよいのだが、それらが平然と黙殺されるとき、誰もが他者・敵・大衆のなかへと溶け込み、もはや何者でもなくなったとき、そうしたことが平然と起こり得るものだと、漠然とした慄きを覚えたとき、そうした関係の全てが恐ろしくなりはしないか。

 随分前には親しく、切磋琢磨したような人間が、数年越しに出会ったとき、不運にも少し前に敵となった国の兵士のように、昔のことを忘れたような表情で、お前は敵だ、というようなことを口にしてきたことはあるか。突然に会話を寸断され、重ねるように、機会があったら、と口癖を残し去って行くようになった者を知っているか。そうした者たちが、希薄な関係を捨て去ることに躊躇しなかったとして、それらが失われたことに、何者かが哀しむことはできるだろうか。そのひとと親しくすることをやめるのだ、今すぐ……、そうした脅迫を黙殺したとして、誰かが幸せになれるとどうして信じられるというのか。……その世界から、自ら、というものが消えた途端に、それらを不幸にみる観察体が失われたことを、残った世界が悦ぶ夢を見ることはないか。気まぐれに、ふい、とそっぽを向いて歩き出す野良猫が、随分経った今でもその非可逆の逃走に涙を流せるほど強固な友情と呼べる唯一のものであった、といえるほどに、酷く冷たい時代を歩んでいた。

 傍に居られればよかったのだった(もし君がそれを悔いないのならば)……。ずうっと前から変わらない、ディスクに焼かれたボブ・ディランの歌声を、最近はタブレットから流し、ひとつずつ啄んでいる。Beat, cheat, mistreat...、そんなふうに。そのどれもが異なっていて、しかも友達でいることでもなかったような気がするのだ、と、六回も考えた挙句に、傍に居ることの、存在の重さを考える。おそらくはそれが一番難しいのだ、その空間にかちりとはまるように、あなたはあなたでなくてはならないし、わたしはわたしでなくてはならない。

 友達になって、と、いう。存在の重さはそうしてはじめて感じられる。あなたはあなたであるし、わたしはわたしでいるつもりなのだ。そこでは同じように時間が流れる。

 もし戦争が起こって、数奇な運命が二人を分かちたら? 起こったような気がして、遠くへゆこうと決意したのだった。夜の高速を走って。

 結局戦争は起きていない。巷説も嘘だった。誰もなにを信じればよかったのだろう?