抽象で蠢く思考
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「抽象のみで、思考は成立しうるのか?」だそうです。抽象的なことばかり読ませられるこっちの身にもなってほしい。理解するのが大変です。あと飽きたからって人に概要の文字埋めさせるのは書かせるのもやめてください。(概要執筆:tmk3ki)
ある具体的な事象を、その具体的な事象単一のままに考えることは当然哲学ではないのだが、一般に、哲学というのは一般化を試みるというより、類似した事象を寄せ集め、それらに対して真っ当な傾向と解釈を見出す行為であるようにもおもう。そうした行為によって生まれ、また認められてきた思考そのものが哲学であり、哲学そのものであり、また哲学として歓迎されてきたようである。
そしてまた、ある具体的な物事を発端に、それらが高度に抽象化され、その抽象のなかで思考は起こらないか考えてみる。ひょっとするとカントはそれに近いのかもしれない。つまり、ある事象がそのまま存在している訳でもなく、類似した事象を寄せ集めるでもなく、それらが具体的な経験や事象に紐づかない、抽象的な概念のまま(たとえばそれは善悪とかそうした定義としての単語などの言語表現で表されるのだが)展開するような思考は果たして正しく成立するだろうか?
論理というものははっきり言ってそれそのものなのだが、しかし論理自体が展開の正しさを保証するとしても、それらが結論の正しさを保証しないことは、多くの欺瞞や詭弁や恣意的な論証がものがたっている。他方で、その正しさを保証できるような論理展開の枠組みがあれば、それは当然肯定されるし、そうでないにしてもその正しさを保証することはなにも論理に限らず、そのほかに抽象的なレベルのままで監視するやりかたがあればいいだけの話である。
そもそもこの文章もそうした抽象的なレベルで展開させているし、だいたい普段からそうしたことをしているような気がするが、いささか気掛かりなのは、そもそも抽象的な、という水準を全く定義していないことにある。具体─抽象という二元的な対立はおおかた合意されるだろうし、それが単なる対立ではなく程度の問題であることも容易に認めてもらえるだろう、そしてその具体─抽象の程度の甚だしいところではどうしたものが具体的に存在するかいずれでも語ることはできるし、またそれらを抽象的に語ることもできる。けれどもその両端がわかったところで、中心のうちにいずれかに偏っているような事象を定義する手法がない。ここまでそれを黙殺しながら、抽象、などという抽象甚だしい表現で暴力的に論理を展開してきたのだが、そろそろそれでは立腹なされても釈明の余地はないので、そそくさと逃げ去るか、有効な定義を提供するかするしかないのだが、……当然ながら抽象的に考えるとここでゆきづまる。もう定義する術はないのだ。それらはこのように曖昧なままで展開する空間ではろくに定義されない。脳裏に蠢く虫でも飼って、それが身体を支配してテクストを生成しているような心持である。そしてそれを否定する術はなにもない。これが書かれ終わったそのときが最後、何人もその現在においてこれが人間によって書かれたものか、あるいはそうではないのか、偶然にもランダムに辞書から単語を拾い上げて生成されてしまった自然らしく感じられるテクストでないことを否定できず、また何者かによって確かに書かれたようであることを否定できないままにいるはずだ。
思考が勝手に動き出す。作家はそうしたことをよく口にする。それを記述しているに過ぎない、しかしそうした主張が論理性を必要とするテクストならば通用するはずもないことは明らかだ。作家のするそれは、幻想も許される架空を描いたものであり、しかもそれが現実を偽装するとき必要なのは物理法則であり論理性ではない。浮かぶままにそれを記述していても、物理法則は画一的であり論理展開よりは自然に蠢くだろう。しかし論理というものは、もちろん数学的な表現手法をもっていようが、それが自然言語の枠組みであろうが、いずれにせよ抽象的な変化の連続であり、蠢くそれであることに変わりはない。
そしてこれがそうした抽象の出した素晴らしい結論だ。「我我は乗っ取られている。」それの指し示す結論はその表現の通りではない。しかしおもえばその結論さえ抽象の呪縛から逃れようのないものであるのだから、我我が乗っ取られている、というそれ自体が、具体だとしても、何らおかしなことではないのかもしれない。